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プロフィール藤木美奈子 プロフィール

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出 身 :

岡山県津山市

学 歴 :

岡山県立津山高等学校卒 立教大学文学部日本文学科卒 ハーバード大学ケネディ行政大学院修了 コロンビア大学東アジア研究所客員研究員

職 歴 :

藤木美奈子 岡山放送時代 岡山放送時代 藤木美奈子 NHKキャスター時代 NHKキャスター時代

岡山放送株式会社にアナウンサーとして入社。FNSアナウンス大賞ブロック賞受賞。
その後、フリーランスに転向し、NHKのテレビ、ラジオの報道・情報番組を担当。NHK総合テレビ「ニュースと解説」キャスター、NHK国際放送「ラジオ日本ワイド」キャスター、NHKラジオ「きょうも元気で」アンカーほか。
アメリカ留学を経て、2004年より、桜美林大学非常勤講師として、スピーチの実践クラスを指導。昭和女子大学、清泉女子大学でもコミュニケーション科目を担当。
2009年から桜美林大学基盤教育院専任講師。専門は、スピーチ・コミュニケーション、音声表現法。そのほか、言語技術、敬語、自己表現と自己実現のあり方など、話しことばに関する分野を幅広く指導。桜美林大学の全学共通の必修科目である「口語表現I」および選択科目の「口語表現II」のプログラム責任者を務める。

学生さんから、アナウンサーになった経緯について教えてほしいとよく聞かれるので、子供時代からアナウンサーとして就職するまでの主な出来事を、思いつくままに綴ってみました。

幼少時代
2歳半で保育所に通い始める。お遊戯会では、音楽の素養がないのに、合唱の指揮者に抜擢される。この時の写真は、壇上に上がったワカメちゃんカットの後頭部の青剃りが輝いていた。人を指揮することがこの頃から好きだったのかも。
幼稚園のお遊戯会では、マッチ売りの少女を演じる。劇中、寒さで凍え死んだ私の回りに、お友達がケーキや蝋燭を持って集まってくれてヒロイン気分を味わったが、どうせなら他のクラスの題目だったシンデレラをやりたかった。
舞台度胸はあるのに、クラスでの発表となると、からっきし駄目だった。毎週月曜日の朝、週末どんな風に過ごしたかを皆の前で発表する時間があった。自分の番が回ってくると、途端に貝のように口を閉ざした。前には出るものの、先生の袖口を引っ張って、内緒でこそこそと先生にだけ報告し、先生が代わりに皆に伝えてくれる始末。一年間こんな調子で、自分で口頭発表出来なかったのは、クラスの中で、私ともう一人の男の子の二人だけだった。当時は、信じられないほどの恥ずかしがり屋だった。

小学校時代
声を出して自分を表現することの面白さに目覚め、家の中でよく大きな声で歌っていた。この発声練習(?)が功を奏したのか、国語の教科書の音読で、先生やクラスメートから褒められるようになる。
作文を書くのが得意だったこともあり、作文や感想文を校内放送でよく読まされた。マイクの前のドキドキ感と、自分の声が校庭のスピーカーから流れてエコーが掛かって反響しているのを聞く高揚感は格別だった。
小学校4年生の時は、自作の童話を全校生徒の前で披露した。5年生の学習発表会では、寸劇で教師役をやり、先生から借りたパーマヘアの鬘がよく似合って教師らしかったと好評だった。この頃は、何かというと作文の発表者として駆り出された。6年生の時は生徒総代として、入学式で1年生にお祝いの言葉を述べた。

中学・高校時代
テニスという華麗なイメージに惹かれ、中学入学と同時にテニス部に所属したが、運動音痴だったので戦績は散々だった。ところが、キャプテンに推挙されてしまい、実力を伴わないリーダーの悲哀を味わう。
中学時代、校内放送を担当すると、辛口で通っている体育の先生から「お前、声だけはいいな」と褒められる。同級生からも「アナウンサーになったら?」と言われることが多くなった。
高校では、放送部に入部。部長に推されるが、中学時代の苦い体験から固辞。なり手がいないのでじゃんけんをしたら、二番負けになり、副部長をやることに。図書館の近くで毎日発声練習をしていたら、勉強の邪魔だと苦情が入った。
歌謡曲が好きだったので、自分で作詞ノートを作って暇な時につらつら詞を書いていた。友達がそのうちの何曲かに曲をつけてくれたので、にわかコーラスグループを結成し、ヤマハのポプコン(中島みゆき、長淵剛、チャゲ&飛鳥などを輩出)に出てみようということに。冗談で出たのに、地区予選を通ってしまった。本選は、勿論落選。
高校3年生の時は、部活動やポプコンなどの行事に忙しく、受験勉強はかなり疎かな状態だった。都会志向が強かったので、両親は反対したが、東京の大学に進学したいと思っていた。受験する大学の場所を調べ、地図を見ながら東京生活を夢見ていた。母親曰く、「あなたは勉強はしなかったけれど、地図の勉強は熱心だった」そのお陰か、都心の大学に進学できることになった。この頃からイメージ成功法を身に付けていたのかもしれない。

大学時代
迷わず放送研究会へ入部。立教大学の放送研究会は伝統的に放送業界に強く、古くは、徳光和夫さん、みのもんたさん、土居まさるさん、加賀美幸子さんなど、錚々たる先輩がいらっしゃった。私に近い年代では、川端健嗣さん(フジテレビ)、寺崎貴司さん(テレビ朝日)、戸崎貴広さん(TBS)など。毎年、4年生の先輩の誰かがキー局のアナウンサーとして内定をもらっていた。
毎日昼休みにサークルの皆で集まって発声練習を行った。鼻濁音や母音の無声化がない中国地方出身の私は、共通語の発音の基礎をマスターするのに四苦八苦。アクセントの違いにも大いに悩まされ、アクセント辞典と首っ引きだった。アクセント辞典は別名、悪戦苦闘辞典と言われるが、その名の通り、苦闘の連続だった。
放課後は週3日部活動があり、原稿読みやラジオドラマ、フリートークなどを練習した。その成果は、立教大学キャンパス内の四丁目と言われる広場に設置されたスピーカーから、生放送のラジオ番組という形で発表した。イベントの司会やコンサートの影アナなど、外部からの仕事の依頼も多かった。
大学3年の時、ラジオの受験番組のパーソナリティー募集を知り、オーディションを受けた。同じサークルの男子部員と共に最終選考まで残ったが、彼は合格、私は不合格だった。同じサークルから二人は合格にできないとの理由で落とされたと聞いたが、この悔しさを契機に、絶対にプロになることを決意。その後、オーディションを担当していたディレクターから、他の番組のアシスタントをやらないかと声が掛かる。ラジオ短波の経済番組のアシスタントとしてラジオデビューすることになる。
大学4年時は、ラジオのニュースキャスターを担当。
就職活動は、放送局と一般企業を同時並行で受験。第一志望の一般企業から内定をいただくも、内定式の10月1日、どうしてもチャレンジしたい放送局の試験が重なり、一般企業の内定を辞退するという苦渋の選択に。人事部から大目玉を食らうことを覚悟してその企業にお詫びに行った際、大学の先輩が応対してくれた。その人と会うのは初めてだったが、「後輩と一緒に仕事ができないのは残念だけれど、ひとりの先輩として、僕は君の夢を応援するよ」と言ってくれたそのひとことは、今でも感涙もの。ますますその企業が好きになり、現在も陰ながら応援している。サークルの仲間たちからは、無謀な決断と、大いに心配された。
地元の岡山放送から、アナウンサーとして採用通知が届く。
就職活動が一段落して、ようやく本格的に卒論に取り掛かる。36時間ぶっ通しで書いて、12時間休憩するという昼夜がくるくる回るサイクルで、一か月半で130枚あまりを書き上げた。このときほど、勉学の面白さを感じたことはなかった。美術大学に通っていた友人が装丁を仕上げてくれて、担当教官から、論文の中身ではなく、デザインの素晴らしさを褒められた。

こんな学生生活を経て、アナウンサーとして就職することになります。ちなみに、子供の頃、将来なりたくなかったのが、アナウンサーと教師でした。その両方の職に就くことになるとは、人生とは不思議なものですね。 社会人になってからの来歴あれこれは、いずれまた。。。

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